フレブルと暮らしていると、いつ何時も、頭の片隅どころかど真ん中に愛ブヒがドスンと居座っておりますが、それって喜ばしい反面結構不自由なことでもあります。
例えば出かけていても、仕事の打ち合わせが長引いても、相棒がひとり家で待っていると思うとすごくソワソワしちゃうので、とにかく留守番をさせている間、ずっと時間を気にして過ごしてしまう。
何をするにもフレブルファースト。これは多くのフレブルオーナーさんにも当てはまることではないでしょうか。
そんな毎日がもうすっかり当たり前になっているのですが、この夏、3日間だけ自分ファーストで過ごせる時間がありました。それはちょうどお盆時期のこと。
毎年お盆休みには夫の実家に愛ブヒ連れで帰省するのですが、今年はタイミングが合わず私だけ大阪に居残りになったのです。
正直に言えば、ほんの少し、いや、かなり解放感を感じていたことはここだけの話にしておいてください。
出発の日、夫と愛ブヒ・楽太郎の背中を見送った私がまず抱いたのは、思い切り朝寝坊ができる、二度寝だって時間を気にせずできるという非常にチンケな野望でした。

こうして文字にしてみると、改めて、本当になんてしょうもない野望なのでしょうか。
朝はゆっくり起きて、帰る時間を気にせずお出かけできる。楽太郎のご飯の心配もないから外でゆっくり食事もできるし、自分の好きなタイミングで過ごすことができる。
よし、この3日間はとことん自分ファーストで過ごそうじゃないか。そんなふうに意気込んでいたんです。が、しかし。
まず思い切り寝坊できるはずの朝。
久々にアラームをセットせずに寝たにもかかわらず、いつもの散歩時間になると勝手に目が覚める。
若い頃なら何度でも二度寝ができたはずなのに、年のせいか一旦目が覚めてしまったら再び眠ることもできず、結局いつもと同じ時間に起床。
普段ならそこから慌ただしく散歩に行くのに、散歩に連れて行くべき楽太郎が不在のため、「用事もないのに早起きしただけの人」になっており、この時点で私の野望は消え失せました。
まあ結局早起きしたし、ちょっとお出かけしようかなと買い物に出てみても、目に付くのはペットグッズや楽太郎の好物ばかり。
それに、先代の愛ブヒ時代からすっかり私の習慣になってしまっている「早く用事を済ませて帰宅する癖」は健在で、人でごった返す街中をウロウロするほどの体力も気力もなく、必要なものだけ買って速攻で帰宅。
その時の、ドアを開けても迎えてくれる愛ブヒの姿のなさの、なんとつまらないことか。
3日間の自由時間!! とワクワクしたあの気分は、早くも1日目の夕方には霧のように消え失せ、ただただつまらない時間が続くばかり。
この時点で早くも楽太郎が恋しくなり、ひとり家にいてもすることがないので、仕方なく普段掃除しない場所を掃除したり、仕事をして過ごすことに。

思えば普段は朝の散歩から帰宅し、楽太郎のご飯タイムが終わってしばらくしたらブラッシングやケアタイム。
仕事の合間に時々おもちゃで遊んだりしながら、夕方になったらまたご飯、そしてお散歩と、一緒に過ごす時間が多いんだなと改めて気づきました。
つまり、楽太郎との時間がなくなると、空白の時間がすごく長い。
例えば日ごろ、仕事がすごく忙しい時などは昼寝に飽きて「遊べ・かまえ〜」とおもちゃを押し付けにくる楽太郎に「ちょっと今は勘弁してくれ〜」と困っるときもあるけれど、いざ誰にも邪魔されることなく自分のことに集中するとなると、なんだか物足りない。
というより、仕事をひと段落させてちょっと遊ぶことが、私にとって良い感じの息抜きや切替スイッチになっていたことにも気づきました。
だからこの期間、私は何に集中するでもなく、チョロチョロと仕事をしながらボーと過ごし、ただゴロゴロしていたのです(言い訳)。
そして3日目。夫と楽太郎が帰ってくる日を心待ちにしながら、ふと思ったのです。
私はどうやら、自由になりたかったわけではなかったのだなと。
朝は起こされ、散歩に連れ出され、帰宅時間を気にし、ご飯の時間を気にし、仕事の途中で「遊べ」とおもちゃを押し付けられる。
出かける場所も、帰る時間も、休日の過ごし方も、楽太郎の存在によって少なからず制限される。
そういうあれこれを「不自由だなあ」と思うことがないと言えば嘘になります。
でも、いざその不自由がなくなってみると、そこにぽっかり空いた時間の大きさに驚きました。

自分の好きなように使えるはずの時間なのに、なぜかちっとも満たされない。
どうやら私にとっては、自由を制限されることよりも、楽太郎のいない自由のほうが、よっぽどつまらないようです。
考えてみれば、楽太郎にとっては、私や夫と一緒に過ごす毎日がすべて。
どこへ行くか、何を食べるか、休日をどう過ごすかなんてことより、私たちがそばにいることこそが、きっと何よりの「正解」のはず。
どこへ行くかでも、何をするかでもない。
大好きな人がいて、ご飯を食べて、散歩をして、一緒に眠る。
その繰り返しが楽太郎にとっての世界のすべてで、その世界の中で私たちが「正解」なのだとしたら。
なんだか、それだけで胸がいっぱいになります。
愛犬と暮らすということは、少しだけ自由を手放すことなのかもしれません。
でも、その代わりに、ひとりでは決して得られなかった幸せを、毎日の暮らしの中にいくつも置いてもらっている。
だから私は、これからもきっと「もう、しょうがないなあ」と言いながら、楽太郎のために予定を変えたり、急いで家に帰ったりするのでしょう。
そして、その「しょうがないなあ」が、たぶん私にとって一番幸せな言葉なのです。
かくも愛しき、この不自由な日々とともに。