いつの間にかすっかり季節が巡り、気づけばいつもの散歩道に橙や鮮やかな黄色に染まった落ち葉が降り積もるようになりました。
落ち葉を踏んだ時にスニーカーの底で鳴るカシュッという音と、足裏にほのかに伝わるその感触がたまらなく好きで、年甲斐もなく踏める落ち葉を探しながら右へ左へと、まるで酔っぱらいのような歩き方で散歩をするのがこの時期の私の日課です。
その姿は側から見れば完全に怪しい女で、白くまあるい、一見ブタのようにも見える犬を連れた女がふらりふらりと歩道を揺れながら通り過ぎた後には、ただただ粉々に砕けた葉っぱが残されている。こうして改めて文字にすれば、んーなんだろう、この妖怪感。
薄暗い時間帯には絶対に出会いたくない妖怪落ち葉踏み女。はい、それが私です。
とまあ妙な自己紹介はさておき、今日も夕方の散歩で落ち葉を踏みながら愛ブヒと歩いていて、ふと不思議な感覚に陥ったのです。私が持つリードをグイグイとを引っ張りながら、時々振り返っては「なんでそんな酔っぱらいみたいに揺れながらぐずぐず歩くのさ」とでも言いたげな相棒・楽太郎の顔が、一瞬先代の大福に見えました。

大福ともよく歩いたこの道には、今の時期になると唐楓の葉っぱがたくさん落ちていて、あの頃の私も今と同じように、大福に怪訝な顔をされながらわざわざ落ちている葉っぱを踏むべく、右へ左へと揺らめきながら同じ道を歩いていました。今、このリードの先にいるのは大福ではないけれど、私は今も変わらずこうして日々を営んでいるのだと、なんだか強烈に命のありがたみを感じたんです。
よく見送った存在に思いを馳せる時に「思い出」という言葉を使うけれど、もしかしてそれは過去の記憶なんかじゃなく、いつでもそこにあって、日常の一部としてまた出会える存在なのではないか。そんなふうに感じました。落ち葉を踏んで愉しむかーちゃんを不思議そうに振り返る楽太郎の顔が先代と重なったその刹那、私は大福とも、楽太郎とも一緒にみんなで手を繋いで歩いているような、とても満ち足りた気分に包まれたんです。
実のところ、大福を見送り楽太郎を迎えるまでその道を歩くことはありませんでした。海に沿うように舗装されたその遊歩道は、夕日の時分がとても綺麗。海といっても大阪湾の内港だから砂浜なんて洒落たものはないけれど、足元でザクザクと軽快な音を立てる枯れ葉の音を聞きながら沈む夕日を眺める時間は、私にとってとても印象的な愛犬との記憶です。
だから先代を亡くした後に一人でそこを歩く気分にはとてもなれず、普段使う道でもないので、そこを通ることなく時間だけが過ぎていきました。
でも楽太郎がやってきて、自然とまた足が向くようになった道。
なんの気なく、踏める落ち葉を探しながら楽太郎と一緒に歩いていたその瞬間に蘇る大福の存在。ひとつの命を見送ったその先が今に続き、楽太郎という存在があって今がある。うまく言葉にできませんが、こうして巡り巡って、愛する存在はたとえ姿形が変わろうとも、こうして再び目の前に現れてくれるのだと、なんだか痛く感じ入ったのです。それはフレブルではないかもしれず、花や草木かもしれないし、さっき頬を撫でていった風なのかもしれないけれど。

今まで思い出ってものは、自分の心の中にある棚に丁寧に仕舞い込まれた箱の中に入っているものだと思っていました。何かの瞬間に意図せずその箱が開くこともあるし、ゆっくりとその手触りを確かめながら、慎重に箱の蓋を開けることだってある。そんな感覚だったのですが、実際にはいつもぴったりと、寄り添うように私の隣を歩いていたんですね。
そこにいる、ここにいる。いつだって、今だって。
そういえばフレブルって、大人しく箱に収まっているような存在じゃないよなと思い至り、思わず笑ってしまいました。私は大福を見送った後に縁があり再びフレブルを迎えましたが、迎えた人も、迎えない人も、今あなたが日々を営むその隣には、きっとあの子がいるんです。
もしかしたらこの記事を読んでくれている方の中には、愛するまあるい存在を見送り、まだ涙に暮れている人がいるかもしれません。この温もりを迎えるのはこれが最後と、密かに決めている人もいるでしょう。命はいつか尽きるけれど、その姿が見えなくなった後でも、彼らはずっと寄り添っているんです。何かの拍子にうっかり姿を現して、「やば、見えちゃった?ねえ。見えちゃったの?」とオロオロする様子さえも愛おしい。
今はまだ、あの子と歩いたお気に入りの場所を歩けない人へ。
いつの日かまたその場所を訪れた時、きっと彼らはひょっこりと(うっかりと)姿を現します。それは風に揺れる葉かもしれないし、葉を揺らす風かもしれない。
けれどもきっと気づくはず。思い出の箱の中に収めた気がしているあの子たちは、当然のように箱の中から華麗に脱走し、変わらずあなたの隣を陣取っていることに。